夢里村

アー

藤本タツキ『ルックバック』を読んだひと

『ルックバック』が公開されて一日経った。たくさんの感想がツイッターを流れていって、やっぱり批判も多く出た。藤本タツキに対するもの、作品に言及するものもあったが、目立ったのは「手放しの称賛」や「オタク」や「冷笑主義」みたいなものを指向するものだ。つまり読み手とその感想に。

どうやらこのタイミングの小山田圭吾とも結びつけられているみたいだが、同時性というものはかくも人間の目を惑わせる。と思いたいが、それもまとめて何かを考えなければいけないのも確かだと思う。

みんなが同じ方向を向いているのを忌避するきらいがあるのはなんとなく肌感覚で来るだろうとは思っていた。これは政治的なものなのか、生理的なものなのかわからない。少なくとも作品には向かう気がなさそうなので別の機会に考えたい。今は『ルックバック』に思いを巡らしたい。

ペダンチックな物言い、これを面白いと思わないツマラナイ人間への敵愾心、あー耳が痛いというか恥ずかしい。御多分に漏れず自分もそうである。絶対無意識でやっている。『チェンソーマン』もそうだが、図抜けておもしろいと感じたものに言葉を塗り重ねてしまう。おもしろくないならそれをちゃんと教えてほしいと傲慢になる。

藤本タツキの暴力性だの、コンテンツ化だの、傑作に磨き上げて高尚への昇華……? わからないが納得もしていない。ぼくもこれは京都アニメーション放火事件へのいち応答だと読んだ。言明はされていない。タランティーノの歴史修正とは違う。もちろん固有名詞を出していないから良いというわけではないが、これはベンヤミンがいうアレゴリーではないか。描くべきもの(=「描くこと」)のための。……。今度は特権性とか言うんだろ……。わからない。誰か助けてくれ。それでも藤本タツキは描いたし、藤野も描いた。考え続けよう。それしかできないし、それができれば十分だろう。あとは自分がかくだけだ。

藤野と京本が遊んでるコマ、横向きに向かい合ってたり正面向いているのがすごく素敵に見える。普通が日常がきらめく。ぼくこの漫画好きだな。

追記

作品と掲載の体裁に対する批判も増えてきた。大きく分けて2つ。
京都アニメーション放火事件」への鎮魂を謳っているようで、それとわかる表記をせず、無作為に読者へその想起を仕掛けてしまっていること。消費への構造を形作っていること。
統合失調症を患っていると思わせる人物が罪を犯すストーリーとなっていること。
これらは無論、作者がそのようなつもりではなかったという意図の有無は関係なく、また明示化を避けているような語り(語らなさと言うべきか)が、却って責任の回避を狙っているのではないかという指摘もある。