夢里村

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三四郎のオールナイトニッポン0 なかやまきんに君ゲスト回 言語空間の規定と倒錯、ギャグの反射面としての筋肉

https://youtu.be/exq47z-fnrc

 

三四郎オールナイトニッポン0スペシャルウィーク、毎年恒例だというなかやまきんに君がゲストの回。ナンセンスの塊といえる素晴らしいパフォーマンスが繰り広げられたが、その一方で突き詰められたきんに君のギャグの純粋性、反復性により、そこには目を瞠る構造が結晶化していった。リアルタイムの、その現象の生成を目の当たりにして感銘を受け、この論を始める。

 

1.透明な言語

オープニングトークののち、CMが明けきんに君が登場する。きんに君は進行開始の合図である「キュー」を独自の解釈で発話し、そこからトークを押し進めようとする。三四郎が交感可能-対話的な話題を展開しようとするのに対し、きんに君は「キュー」を数字の「9」に変奏させ随所にねじ込み、トークを脱臼/反復させていく。その後「キュー」は純粋な音声言語として使用され、無意味で透明な記号、宙ぶらりんのギャグとしての様相が提示される。ここでは「キュー」はきんに君の恣意的で無軌道な音でしかなく、なんの色も匂いも示さない。会話、問答、コミュニケーションを破壊するための道具にも思えるそれが雷のように突如きんに君から発せられるとき、パーソナリティである三四郎にそのどうしようもなさ(既存のトーク番組のルールから完全に逸脱しており対応できない)とシュールさから笑いが誘爆される(そしてもちろんそれはリスナーである我々も例外ではない)。きんに君の繰り出す「キュー」が無慈悲に暴発するフィールドへと放り込まれ、番組冒頭では無秩序が横溢しているかのようである。しかしトーク(?)が進行していくにつれ、ある構造が生まれていく。

 

2.破壊と創造(の助走のため)の「キュー」

きんに君は三四郎に「「キュー」って言ったよね?」と問われるが頑なに「言っていない、自覚がない」と否定する。わざわざ指摘するまでもないが、きんに君がキューと発したことは誰しもに自明であるのにそれを認めない、というあからさまな嘘をついているおかしみをネタにしているわけだ(ウケをとるための背景をクソ真面目に言語化することはある種滑稽で興醒めする営為かもしれないが、ここでは私はこういった行為に真摯に向き合いたいと考えている)。ちなみにきんに君の持ちギャグ「パワー」も登場するが、これはすぐに「言った」と認める。きんに君「キュー」、三四郎「言った」、きんに君「え? 言ってない」といったやり取りが繰り返され、ここでもきんに君が主張している限りにおいて、言葉の透明性が確保されているといえるだろう。

相田によって話題は突如大ヒット中の韓国ドラマ『イカゲーム』に移る。3人が『イカゲーム』の劇中で行われるゲームの中で好きなものを挙げるが、その際3人同時に発表するという展開に。そこできんに君は明らかにキューと言っているが、三四郎には「だるまさんがころんだと言った」と主張する。きんに君の中では、キューという発声は初めから「だるまさんがころんだ」だったという解釈だ。つまり、言っていないはずのことを言っている(ということになっている)。これが本論の肝である。きんに君は①突然無意味に思える言葉を発して会話の場を破壊し、②事後的に意味の通る言葉を発したことにするという恣意的な秩序を作り上げる、という行為をまかり通そうとしている。この構造が更に深化していくのは、きんに君が『イカゲーム』を見たのか見ていないのかを追求するシーンだ。三四郎から、『イカゲーム』を見たことがなく知ったかぶりをしていると言われたきんに君は、「見ました」と言えと強要される。それを彼は、例えば「みあしは……」のように非常に曖昧で掴めない発話により躱していく。見た、とはっきり言ってしまえば、見ていないことが露見した際に嘘つきのレッテルを貼られ、見ていないと答えれば今まで知ったかぶりをしていたことになってしまう。そのような不名誉を回避するため、曖昧模糊な言葉で返答するのだ。言ったのか、言っていないのか、そのどちらでもないのか。きんに君の発語は、まるで生きているのか死んでいるのかわからないシュレディンガーの猫のようなゆらぎの中にある。

 

3.構築、簒奪、対立、そしてさらなる構築

トーク(?)は進み、オリンピックの話題に。好きな卓球選手を同時に発表しよう、と飽きもせず『イカゲーム』のときと同じことを提案する3人。これではあのどうしようもない言葉の幽霊が通り過ぎるだけである。しかし違った。きんに君は真っ当にスポーツ選手の名前を挙げ、三四郎の2人は「キュー」と言うのである。これは革命的な事件である。なぜなら、無軌道で自分勝手な破壊者と思われていたきんに君の言語空間に、三四郎も飛び込んでいったのだ。そこからは、「キュー」といつ言っても良い、それは発話されてもなかったことにできる、事後的にほかの言語として補完できる、というきんに君の(独自)ルールを、三四郎も獲得するのだ。または、きんに君の振り回していた言語という武器を三四郎が奪ってしまった、と言い換えてもいい(きんに君は三四郎のキューに動揺を見せる。自らが支配者として君臨するために構築した世界の条理を理解され利用されてしまったのだ)。ここにシュールで暴力的で超おもしろい言語ルールが規定され、そこで3人が暴れまわる。ちなみにきんに君は「朝の時間帯に「元気です!」と言ってしまって(放送倫理的に)大丈夫ですか」と確認をとったりしている。全く意味がわからないし時間帯は朝でもないが、彼はやはり「言う(ことができる)」「言わない」という言葉の持つ暴力性、規則性にとても自覚的なのである。

その後リスナーからのリアクションメールが読まれていくが、きんに君はここでも言語(空間)の改変を行っていく。彼がまず行ったのは、「最近急に乾燥してきて秋の空」というメールの文面にフリーライドしての俳句の作成だ。俳句こそルールに縛られた言語遊びであり芸術である。きんに君の作り上げた言語空間がどんなものか伺い知れる一幕である。もはやきんに君は「キュー」の一語によって芸術を創造しているに等しいのかもしれない。この、リスナーからのメールというアイテムに注目してみよう。きんに君がキューと言った場合、その発話は明らかである。だるまさんがころんだ と言っていないのも明らかである。ではメールはどうか。これは、読まれるまで何が書いてあるかわからないもの、である。つまり、「読まれて初めて視聴者には何が書いてあるかわかる」のが、リスナーからのメールなのだ。さらに発展させれば、「きんに君が読めばそれが書いてあることになる」のである。三四郎が否定しているから真偽がわからなくなるが、それがなければRNムニムニムニエルが俳句を送ってきていることになってしまうのだ。これが、ラジオにおけるリスナーの言葉の生成の原理である。それをきんに君は悪用してまた暴れ放題しているのである。

 

4.そして三四郎へ回帰する

ここまで来て、何か既視感のようなものを感じないだろうか。私ははっきりと結びつけることができた。それは今回における三四郎のオープニングトークである。小宮が相田の(架空の)真似をして好き勝手に発言するという、三四郎ANN0おなじみのあれである。余談だが、先回の、ブルーインパルスに乗ってGに耐えられず相田のE判定の肝臓が体外に飛び出している最中に小宮はやきそばを食べながらスモークで漫画『DEATH NOTE』の表紙を描くくだりで腹がよじれるほど爆笑してしまった。閑話休題。今回は渋谷大好きな相田が渋谷の色々な場所に行きたいと(小宮が)こぼす、というものであった。象徴的なのは、相田の真似をしているという設定にも拘わらず小宮が「相田も言ってたし……」という発話をする点である。相田のツッコミにもあるが、この小宮は一体誰を模倣しているのか。相田なのか、ほかの第三者なのか。そこには一人称のゆらぎ、発話自体の夢幻性ともいえるものの発露がある。「キュー」というギャグの奪い合い、リスナーのメールという不確かなエクリチュールを再現前させること。きんに君の登場によって生まれた言語空間の磁場は、発語を不明瞭な霧の中に覆い隠した。めくるめく言語のゆらめきと拡散。そしてそれは、三四郎のラジオ固有のクリシェに乱反射して生み出されたものだったのかもしれない。なんとも刺激的で不可思議なトーク番組であった。

 

「お笑い」を論じるにあたってベルクソン『笑い』を始めとして、プラトンやカント、木村覚『笑いの哲学』等参照できれば……と思いますがそんな胆力もなく……。先延ばしにして読まなさそうだけど、自戒と備忘を込めて。

 

 

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