夢里村

アー

お酒 京都

10、11としょうたさんのお誘いから京都に行っていた。目当てはロームシアターのディミトリス・パパイオアヌー『TRANSVERSE ORIENTATION』。

一日目はブライアン・イーノBRIAN ENO AMBIENT KYOTO』行ってあとは酒を飲んだ。イーノがそもそもビジュアル・アートと呼ばれるそういった作品群を制作していることを知らなかったけど、まあまあ良かった。時間イメージを喚起させる、生成し続けるランダムな配列ていうのは一貫してて、人をひとつの場所に固定させるのはアンビエントだよねと収まりは良くもあまり驚きはない。音楽作品『The Lighthouse』は建物全体で常に流れており、解説を読まないと気づかなくて、例えばそれはトイレでもそうで、これは良いなと思った。閾値の下の芸術。とにかく目指すところがわかりやすくてまっすぐでこちらもなんだか心地がいい。

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ぶらぶら京都の町を歩いて、なんとなく辿り着いた三木半に入った。地元の老人が多くて良い雰囲気だった。刺身も天ぷらもおばんざいもどれもおいしい。寿司メニューたくさんあったが食べなかった。たばこは吸えない。テレビでグリ下キッズのリポートをしていた。TikTokばかり見ているからトー横キッズには勝手に親しみを覚える。


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気づいたら先斗町に迷い込んでしまっていたがしょうたさんの嗅覚でジャズバー魔女利華に潜り込んだ。狭すぎるしごみみたいなものがひたすら積み上がっている。カウンターの奥にお酒があまり見えない。店内は完全にソウルがかかっていた。店主の人もひとりだけ座っていた常連さんも、過度に接触はしてこないものの少しだけ喋ってくれるような、とても良い距離感でやってくれた。うまいんだよこれ、と誇らしげに普通の駄菓子を出してもらったのが良かった。リクエストがあったら言ってな! というのは定期的に聞かれたので、大西順子をかけてもらった。トイレのドアのノブはイカれていてマジックハンドの持ち手みたいなのが無理矢理取り付けられておりしかも閉めることができない。これは良い店だったな……。


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二軒目はしょうたさんが行ったことあるというこれまたジャズバー、ろくでなしさんへ。治安の悪い地域にあって、オアシスのようだった。オーネット・コールマンの『Of Human Feelings』がかかって、世界一かっこいいアルバムだと思った。それで騒いだりカポーティの話をしょうたさんとしていると、でかい金髪のみうらじゅんみたいな人がカウンターからチラチラこっちを見てはうんうんと頷いていて、その人が帰るときもこちらを一瞥し満足そうに去っていっておもしろかった。話しかければ良かったか? ハイボールがまじで水(おいしくない)。

https://music.apple.com/jp/album/of-human-feelings/1434354320?ls

 

翌日、ハイボールが水のように薄かったおかげで早起きしてモーニングした。一日が輝き出すのわかった。そのまま絵本屋に行って汗だく。パパイオアヌーまで4時間くらいあったけど、暑すぎて美術館以外に選択肢がなかった。寺は無理。京都国立近代美術館の清水九兵衞/六兵衞がとても素晴らしかった。九兵衞としての近代的なアルミのでかい彫刻、京都やイタリアの建築から影響を受けた屋外彫刻、六兵衞としての実用性を無視したただかっこいいだけの花器。これだけで京都来た甲斐あった。

 

パパイオアヌーは、これまで観たすべての視覚芸術の中で、傑出して、ほんとうに一番すごかったんじゃないかと思った。ただそれは作品総体としてではなく視覚的な部分で、戯曲としては疑問が残るところもあるしあんまり良くないなと思う箇所があったことも確か。タイトルは『TRANSVERSE ORIENTATION』、「蛾などの昆虫が、月などの遠方の光源に対して一定の角度を保ちながら飛ぶ感覚反応のことを指す」(下記サイトから引用)。光が印象的な(そして卓抜とした)作品ではあったけど、こんな素敵なタイトルをつけた衣裳のアンゲロス・メンディスすごい。光に翻弄され変化を余儀なくされる人物たちを神話をベースにせりふなしで演出する。キャストの訓練された身体(そしてその造形?・いやまことに人間とはウツクシイものなんですね、知らなかった)と照明と水のすばらしさがまずなによりも。傑作には水がある。タレス読みたいな。それから身体や神話的モチーフの解体と再構築うんぬん……。物量、牛、コメディ。あの熱量に霞まない文字がよみたい。これはどうなんですかと思ったこと→パパイオアヌーの終演後トークより、この作品は前時代的でマッチョな父親をみてきて構想を得たということらしいが、作品内でアフロディーテ風を演じる女性は水を象徴し男性たちは喉が常に乾いているということも語っており、与える女性/与えられる男というジェンダー観を再生産してないか(実際に女が水を振りまいて男たちがこぞってそれを飲むシーンがある)。二者の身体を切断/結合することによる両性具有的なパフォーマンスがあったりもするが、女性性と男性性は随所で露骨に対照させられている。もちろんそれ自体に疑問を呈したいわけではないんだが、わざわざそうする違和感……。古代ギリシャはじめ西洋の巨大な美術史の再解釈を現代でごり押すにしても、このやり方が美しいとは、思えない。

https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/25681