夢里村

ジャズとタコスについて。

日記 03222026

先週土日が仕事で12連勤だったので、昨日の土曜は英語の授業をサボって、楽なことだけする日にした。10時すぎまで寝てごろごろしてたら停電になった。真っ暗でシャワーを浴びて、出かけて、タコス屋を2軒はしごした。静かで少し暗い場所から、日が明るくて風が吹いていそうな屋外を眺めているのが好きだ。屋内でテレビがまるでなんの意味もないかのような音を出していたらもっといいかもしれない。なんの意味もないわけはないのだが。意味のないものがもっと世界にあふれていればいいのにと思う。当然のことだけど、美術だってその限りではない。誰かにとってそれはとても意味のあるものだ。そしてぼくも、どこかで意味を見出だしてこれは良いとかこれは良くないとか批評するんだろう。結局全ては意味に収斂するのか、実はそうでもないのか、そうでもなかったら嬉しい。政治とかそもそもなくてもなんとかなる世界だったらよかったのに。映像だと、建物や、働いていそうな人間が映るから、どんな物語だとしてもそこに政治や法律やなにかが見えるように思う。文学であったら、そこには文字しか見えないから、もしかしたら人間が他者と暮らしていくうえで必然の機構が存在していないようにみせることも可能なのであろうか? それは夢見すぎか。こういうときいつも、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』を思い浮かべる。ルソーが俗世を離れ、誰とも接続されず、植物とだけ対話し、湖に浮かぶ舟の上でただぼんやりしているようなそんなこと。ぼく自身はひとりぼっちになりたいわけではなく、誰か友だちがいてほしいと思う性質だから、その時点でもう政治が必要なのかもしれないな。

金を使ってビールを飲みながらこんなことを書いているのもへんてこりんなことだろうか。仕事をしていてお金をもらっていることに感謝しなければ、とか、誰にむけて気を遣っているんだろうか? 働かずとも、ビールを飲んで、家があって、別に整備されていなくていいから草原に寝っころんでのんびりする日を思っている、いつも。そのためにはいまの自分の状況では努力しなければいけないけど、努力せずそれを手に入れたい。ビールを作るため、ビールを提供するために多くの努力を払っている人がいるんだよな。いま、ビールが50種類くらいある大好きな店、TORONADOにいるが、ピルスナーを飲みたいといったら、おすすめのやつを出してくれた。おいしかった。昨日は家事を一切しなかったので、これからスーパーに行って野菜を買って、家に帰って洗濯をして、英語のオンライン授業をしなければならない。英語なんて、バーで酒を飲んで隣の人と喋るだけなら、わざわざ金を払って習わなくてもいいのにな。仕事って、余計な能力を必要とさせられてちょっと困っちゃうな。なんだかぼやきが、ホールデン·コールフィールドみたいになってきたとか思ったりするけど、それは美化しすぎか。やつははるかに自分勝手な乱暴者だろうか。 ぼくは、『フラニーとゾーイ』の、フラニーの感覚だけは、見失わないようにしたいと思っている。

サマータイムが始まって、まだまだ日が長いけれど、そろそろビールを飲むのをやめて家事をして英語を勉強しなければならない時間が迫っている。仕事をしつつ、生活をともにしている他人のこと、親やパートナーや子どものこと、を考えている人たちのこと、ほんとうにすごいことだと思っている。ぼくはもう少し、薄暗いバーやタケリアかなんかから、明るい外の世界をぼんやり眺めていられる時間に浸っていようと思う、ひとり。f:id:yumesatomura:20260323085749j:imagef:id:yumesatomura:20260323085750j:imagef:id:yumesatomura:20260323085753j:imagef:id:yumesatomura:20260323085754j:image