夢里村

アー

空間の詩学

ひさしぶりに映画をいくつか観た。

荒野のガンマン サム・ペキンパー
昭和残侠伝 死んで貰います マキノ雅弘
血槍富士 内田吐夢
現金に体を張れ スタンリー・キューブリック
ロスト・シティZ 失われた黄金都市 ジェームズ・グレイ
散歩する侵略者 黒沢清
いとこ同志 クロード・シャブロル
ビデオドローム デヴィッド・クローネンバーグ
シェルブールの雨傘 ジャック・ドゥミ
友だちのうちはどこ? そして人生はつづく オリーブの林をぬけて アッバス・キアロスタミ

どれもそこそこおもしろかったけど、胸は打ち震えなかった。でも 友だちのうちはどこ? の夜の家々の間を歩いているときの窓の光の浮遊はすごく気持ちよかったし、ラストの花は絶叫しそうになった。キアロスタミすごく良かった。
シェルブールの雨傘はつまらなさすぎて驚いた。特に男が戦争に行ってるときに送ってきた手紙を女が窓辺で読むショットで、雪の降る町と窓枠とカーテンと衣装と便箋で白一色になっていてすごく綺麗だったのに、女が動いてカメラもパンして派手な色の壁を映したのはなんだったのだ? あの美しい画面が壊れることが二人のうまくいかない未来を予期させるとでも? あの息を呑ませるシーンを持続させることより大事なことなんてあるだろうか。

起きて、映画を観て、昼寝して、本を読むことを繰り返した。昼はずっと部屋がくらい。微睡みと部屋のくらさは繋がっている。なんとなく、ここが落ち着きの場所、自分を世界から匿ってくれる静かな場所とは思えない。どこに行けばいいのだろうか? どこへ、か?

ずるずる はいどうもーすするでーす

月、踊っていてね

飲んでばかりだった。休みに入る前の水曜日、0時までやっているピザ屋でピザも食べずスタンディングで飲んでいた。お店の人が優しかったのを覚えている。みんな賄いでピザを食べていた。木曜日、約束していた建築家の人と立ち飲みイタリアン。ひどい宿酔で歩けなかったが15時くらいになんとかなりそうだったので身体引きずり向かった。途中スパークしている美容師の人を紹介してもらい一緒に飲む。かなりスパークしている人だった。その日の夜なぜかデンマークのバンドや、シューゲイザーが好きならということで(マイブラやライドの話をした)ん・フェニというミュージシャンをメッセージで教えてもらった。この日の夜のことあまり覚えていない……。9時間飲んだ。

ん・フェニ
https://music.apple.com/jp/album/summer-ep/1573551251?ls
シューゲイザー関係あるか?

Gangway
https://music.apple.com/jp/album/happy-ever-after/200305973?ls
かっこいい

金曜日、仕事だった。嫌だった。この日は友達がDJするからと誘ってくれたバーに行って、ずっと踊っていた。勝手にコンガを叩いているひともいた。踊るとみんな喜んでくれる。ぼくはダンスなんてしてきたことないからズブズブの崩れたコンテンポラリーまがいになっている。でもたくさん笑ってもらえるし、ほかのひともいっしょに踊ってくれたりもして、気持ちがいい。もっと自分の思い通りに身体を動かせたら、と思うけど、音楽に誘爆した自動筆記のようなダンスができたら……とも夢見るので、このままアウトサイダーでもいいかもしれない。ずっと踊っていたから次の日めちゃくちゃ筋肉痛になったし二日酔いだった。土曜日、勅使川原三郎演出の『風の又三郎』を友達と観た。このひとはいっしょに演劇やダンスや美術館に行ってくれてありがたい。ダンスはほぼ寝た。その後焼き鳥屋と立ち飲み屋とバーをはしごした。洋書で読んだというエドワード・ホッパーの話をしてもらった後バーで《ナイトホークス》のスマホケースのひとと出合ったり、ぼくがたまたま持っていた美術手帖に載ってたピピロッティ・リストの展示を見に行っていたりと、色んな偶然があった。アートって嬉しいものだ。バーではライブに携わる仕事をしている知り合いのおっさんが泣きながらイベントやミュージシャンやまわりのひとたちのことを語ってくれて、打たれてぼくも泣いた。いい夜だった。
立ち飲み屋の店長の人が学生時代映画を撮っていたというので、たくさん映画の話ができたこともよかった。カンパニー松尾に憧れていたらしい。

藤本タツキ『ルックバック』を読んだひと

『ルックバック』が公開されて一日経った。たくさんの感想がツイッターを流れていって、やっぱり批判も多く出た。藤本タツキに対するもの、作品に言及するものもあったが、目立ったのは「手放しの称賛」や「オタク」や「冷笑主義」みたいなものを指向するものだ。つまり読み手とその感想に。

どうやらこのタイミングの小山田圭吾とも結びつけられているみたいだが、同時性というものはかくも人間の目を惑わせる。と思いたいが、それもまとめて何かを考えなければいけないのも確かだと思う。

みんなが同じ方向を向いているのを忌避するきらいがあるのはなんとなく肌感覚で来るだろうとは思っていた。これは政治的なものなのか、生理的なものなのかわからない。少なくとも作品には向かう気がなさそうなので別の機会に考えたい。今は『ルックバック』に思いを巡らしたい。

ペダンチックな物言い、これを面白いと思わないツマラナイ人間への敵愾心、あー耳が痛いというか恥ずかしい。御多分に漏れず自分もそうである。絶対無意識でやっている。『チェンソーマン』もそうだが、図抜けておもしろいと感じたものに言葉を塗り重ねてしまう。おもしろくないならそれをちゃんと教えてほしいと傲慢になる。

藤本タツキの暴力性だの、コンテンツ化だの、傑作に磨き上げて高尚への昇華……? わからないが納得もしていない。ぼくもこれは京都アニメーション放火事件へのいち応答だと読んだ。言明はされていない。タランティーノの歴史修正とは違う。もちろん固有名詞を出していないから良いというわけではないが、これはベンヤミンがいうアレゴリーではないか。描くべきもの(=「描くこと」)のための。……。今度は特権性とか言うんだろ……。わからない。誰か助けてくれ。それでも藤本タツキは描いたし、藤野も描いた。考え続けよう。それしかできないし、それができれば十分だろう。あとは自分がかくだけだ。

藤野と京本が遊んでるコマ、横向きに向かい合ってたり正面向いているのがすごく素敵に見える。普通が日常がきらめく。ぼくこの漫画好きだな。

追記

作品と掲載の体裁に対する批判も増えてきた。大きく分けて2つ。
京都アニメーション放火事件」への鎮魂を謳っているようで、それとわかる表記をせず、無作為に読者へその想起を仕掛けてしまっていること。消費への構造を形作っていること。
統合失調症を患っていると思わせる人物が罪を犯すストーリーとなっていること。
これらは無論、作者がそのようなつもりではなかったという意図の有無は関係なく、また明示化を避けているような語り(語らなさと言うべきか)が、却って責任の回避を狙っているのではないかという指摘もある。

藤本タツキ『ルックバック』

本当に頭が下がる。あの事件を知った日は飲み屋で飲んでて、気分が悪くなって家でしょぼくれていただけだった。

 

藤野が初めて京本の絵を見て下校途中に悔しがるコマで、田植えをしている農家のインサートがすごい。モンタージュってこういうものだ。そこから走り出すのは、京本に認められて雨の中走り出すシーンで美しく反復する。あの雨は藤野の喜びを気持ちよく演出するし、帰宅してすぐに机に向かったことがわかる時間描写にもなっていて、天候てやっぱり最高だなと思えた。空が人間に何かを与えてくれるのは、いつだって巨大な讃美歌だ。

時間を駆ける/架けるフィルム4コマが落ちること、藤野が絵を辞めようとしてノートを捨てるシーンで既に「分岐」を指し示している。

藤野が事件を知って過去を回想するシーンは、コマの枠とフキダシを雪が塗り潰している。回想のコマにはそれがわかるような仕掛け(大抵コマ外を黒にするとか)があるものだけど、こういう一つひとつのアイデアがおもしろいし綺麗。

効果音は藤野が初めて京本を訪ねた時、もう一つの時間軸で京本が藤野の来訪を知る時、それぞれの存在を確認するための音としてのみ、140ページ超ある長さの中で、2回だけ使われている。漫画の表現方法が、最小限のフレームで最大化されている。かっこいい。

藤野が救急車で運ばれていくときに藤本ピースが出てきて嬉しい(デンジのピース思い出す)。

窓とかドアとか、世界の境界として、アクションの呼び水として、キャラクターたちのフレームとして、描かれ方が本当にすごい。それらって住居の究極的な機構で日常的なものなのに、芸術においては激烈に劇的なものに変身するのだ。

劇中の4コマ漫画が全ておもしろい。4コマ漫画も連載してほしい。

 

芸術への愛に溢れていて、世の中の陰惨なものへ立ち向かっていて、時間は一直線にしか流れていないけど、現実をフィクションが塗り込める、その再帰的な希望を信じ続けて。ありがとう。

絶好調に調子が悪い

書かなければ死ぬ。そう思って2週間くらい経ったけど、もちろん死なない。でもやっぱり死なないために書かなければいけない。十分条件ではないが必要条件かもしれないとは思う。誰しもそんな矢印があるんじゃなかろうか。今のぼくには書くことなんだと感じる。それが撮ることかもしれなかった人がいて、その人は撮っていたが、死んだ。だからやっぱりこんなことは十分条件じゃない。死ぬことはいつもある。書かなければ。

ぼくはいつも書けない。言葉もない。何も浮かんでこないこの空虚に絶望するのはやめよう。ポケモンのことでもいいから書こう。ぼくはいつもポケモンバトルを見ているからだ。友達はポケモンカードをやるみたいだから、ポケモンカードを買うのもいいかもしれない。そうすればたくさんのことが書けるだろう。リュミエール兄弟はいつも何を考えて撮っていたんだろう。どんな時に撮ろうと思ったんだろうか。

みすず書房のクレーの日記を参考にしてもいいかもしれない。8000円くらいするが、今とてもほしいものだ。千葉雅也が話題にしていた気もする。そういえば千葉雅也の小説を読んだことがない。それを読むのも良さそうだ。

 

この本の表紙の写真がとてもかっこいい。著者が撮ったものを編集の人が選んだらしい。モンゴルで遠くからぼくを見てきた牛を思い出す。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784794972453

人生ミスっても自殺しないで、旅


f:id:yumesatomura:20210712132737j:image

 

山でヤマアラシをケバブにして食べた話

f:id:yumesatomura:20181027085052j:image

 

イラン滞在3日目、今日は狩りに行くぞと告げられ、後輩の従兄弟シャーロムの床がすげー広い家で寛いでた。暑い地域なので冷房がありえないぐらい作動してた。謎のミントのジュースとか飲みながら寛ぎすぎてこんな流れで狩りに出るか?と思っていたら夕方いきなり車に乗れと言われた。ぼくらの車の他にもう一台いて、知らない屈強な男が2人立っていた。Gachsaranから2.3時間くらい走らせた、山入ってからも1時間弱走ってた気がする、途中熟したナツメヤシを食わされた。イラン人はこのナツメヤシがかなり好きらしい、ベタベタのあんこの塊みたいなクソ甘いやつだ。キアヌシュペルシャ語と日本語の翻訳アプリを起動させだしたから、とりあえずaっていれたらab(アップ:水)が出てきてabという単語を覚えた。山入ってからなんか車が動かんくなって絶望しながらみんなで押した。上みたら星がすごいことになってたけど坂で車押してすごい疲れたからあんまり気にしなかった。

山いつまで走ってんの?と思ってたら屈強な男たちが車の中から懐中電灯とかで外を照らして獲物を探し出した。こんな雑に見つからねえだろという気持ちだった。拠点が決まったら、火起こし班と狩り班に別れた。ていうかテント張り出して泊まる気まんまんで、歯ブラシ持って来てないしとか思った。ぼくは4人の狩り班の1人で、水担当だった。空の2リットルペットボトルを持たされた。

獲物に気づかれないよう、基本明かりはつけないで移動、暗すぎて意味わかんなかった。途中謎の蛇口を発見してペットボトルに水を入れた。何してるのか意味がわからなかった。しばらく歩いてたら急に屈強な男ハサンが銃をぶっぱなして叫びながら走り出した。わけがわからなかったけど獲物がいたんだというくらいは理解し、ビデオを撮らなきゃと思って、持たされてた邪魔な水をそのへんに捨てて斜面を下った。ヤマアラシがいて、そのそばにはハサンとアハマドがいた。ヤマアラシは手に弾が当たってもう逃げようとしていなかった。のそのそしていた。ぼくはとりあえずカメラをまわした。ヤマアラシは背中とケツについてる針を揺らして音を出して威嚇したり、後ろ向きで突進して攻撃しようとしたりしていた。しばらくハサンとアハマドがヤマアラシをつついたりしていた。完全にヤマアラシはもう終わってた。アハマドはこん棒を持っており、それで殴り殺す算段だというのは車の中で聞かされていた。ぼくは怖くなってヤマアラシにズームしまくって画面を黒で埋めてしまった。はっとしてズームアウトして少しすると、アハマドがヤマアラシをぶん殴った。ヤマアラシは横に倒れてぶるぶる震えて、針がカラカラと鳴った。アハマドは確実に倒すため数回頭をしばいた。そのたびにヤマアラシはびくんと体を揺らした。

土本典昭不知火海』を見せられながら、カメラマンの感情の没入とともに被写体にズームしてしまうこと、その抑制、鑑賞者の意識をそらすためのパンなどの話を聞かされたことがあった。運動会とかでね、親御さんはすぐズームしちゃうんだよ、そのまんま据え置きでやるのが一番いいのに とか言ってた。ぼくはフレームの外を排除するように、無意識に対象の像をぼやけさせていった。びびっていた。

そのあとはヤマアラシの首を切った。気道からぷしゅぷしゅ音がしてた。そんで水をくれ!って言われた。abを覚えてたのが役に立った。ああ、このときのための水だったのか。あれ、水ないじゃん。ぼくが投げ捨てた水をみんなで探した。アハマドはみんなが何かを探し出したからまた獲物がいたと思ってがんばってヤマアラシを探していたらしい。

 

ケバブはまあまあ美味しかった。