夢里村

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M-1グランプリ2022三回戦 チェリー大作戦のネタについて

宗安が高校の同窓会に来るリコちゃんに下心を持ち仲良くなるためのシミュレーションを鎌田に持ちかける、というのがこの漫才の冒頭。

 

同窓会会場で宗安が(リコちゃんであるはずの)鎌田に挨拶をする、鎌田はリコちゃんではなく宗安の男友達のようなニュアンスで「芸人がんばってるらしいやん」と激励してくる、宗安はリコちゃんと話すため男友達から離れリコちゃんに呼びかける、リコちゃんかと思われたひとはリコちゃんの友達だったのでまたリコちゃんであるはずのひとに話しかける、しかしそれはリコちゃんではなくワイングラスだった。

宗安は「ちゃんとリコちゃんをやってくれよ」と鎌田にお願いをする、宗安が呼びかけるとそのひとはリカコだった、次に声をかけたのは「芸人や芸人、おもろいことやってや」という嫌なひと、それをいなしてリコちゃん? と隣に問いかけるもそのひとは「リコちゃん?」と彼女を知らない様子、次々名前を尋ねるもその隣もまたその隣もリコちゃんではなかった、リコちゃんを探していると車に轢かれそうになり、宗安は店の外に出てしまっていた。

宗安は店に戻り「リコちゃん集合」と自分の前方足元を指差すと「なにー?」と駆け寄る女性、ようやくリコちゃんに会えた宗安は食事の誘いをするが実はそのひとは前にも登場したリカコであった、宗安は「お前みたいな女が一番嫌い」と一蹴する、隣に声をかけるとこれも再登場の「おもろいことやってや」と繰り返すひとで宗安は「リカコぐらい嫌い」と苛立ちを露わにする、やはりその隣も隣もリカコではなくまた店外に出そうになったため引き返す。

舞台上手に戻りめげずにリコちゃんを探す宗安だったが、鎌田が駅員としてのアナウンスをしたことでなぜか駅のホームにいることを知る、リコちゃん と発声しながら店のドアを開けたはずが鎌田はニューヨーク行き飛行機のアナウンスをし宗安は飛行機に乗っていた、飛行機から出て今度は自分の意志で電車に乗り改札を出て店に辿り着き再びドアを開くが、ロケット発射のカウントダウンが始まり宗安は宇宙に出発するところだった、そこから数々のドアを開け長い道のりを行き店に飛び込みリコちゃんを呼ぶが鎌田が浮いておりそこは宇宙だった、店に戻るためいくつもの出入り口を経由するがその先には「太陽と話す会へようこそ」と歓迎をする鎌田がいた、まずいところに来てしまったとリコちゃんの元へ苦労して戻るとそこにはリカコがいた。

宗安はリカコに出会えたこと・同窓会会場に戻れた安堵からリカコに泣きつく、嫌いだったはずの人物に「おもろいことやってや」と言われても「せっかく来たんやからなんでもやったるがな」と「猫背マッチョ」という猫背でポージングをする一発ギャグを快く披露する宗安、鎌田扮する人物は宗安がリコちゃんを探していることを気遣いリコちゃんを探しにみんなへ呼びかけるが宗安と同じように店の外に出てしまう。

店に戻った鎌田は駅のホームに来てしまい駆け出す、宗安は次は空港に着いてしまうのではないかと心配するが、鎌田はさらにその先の飛行機に乗り込んでしまっておりそれに順応し機内食ビーフを選択する、「お前機内おるやんけ、どこ行くの」とツッコむ宗安に気づいた鎌田の「なんで宗安も機内おるの」という問いかけにより宗安も飛行機に搭乗してしまっていることが発覚する、急いで脱出し何度目かわからない同窓会会場の店の前まで行き祈るような気持ちで扉を開けると鎌田が立っている、宗安は鎌田に「リコちゃんか? リカコか?」と不安げに呼びかける、おもむろに口を開いた鎌田が厳粛な口調で「おはようございます」と語りかけることでそこが太陽と話す会だとわかり、宗安が絶望の中幕を閉じる。

 

このネタは、〇〇なことをしたいからその想定で△△を行う、という漫才のいち定型である。この形式において、芸人は出自だろうが職業だろうがどんなアイデンティティをも獲得し設定したものになりきることができるし(本大会準々決勝では宗安は犬になった)、あらゆる状況やオブジェクトをも創出することができるというのが前提になっている。リコちゃんと仲良くなりたいと漫才を始動させたのは宗安だが、全編を通して「どんな人物にでもなれる、あらゆるものを創出できる」権限を握っているのは鎌田である。しかし鎌田にはおそらく意思のようなものはなく、漫才の相方というよりも、このネタにおいては小説における作者のような立場が近いだろう(ちなみにネタ作り担当は宗安)。デウス、この作者としての「神」の権限は宗安の願望をことごとく達成させず、シミュレーションを脱臼させる。

 

・移動について

下心を持ってとある女性と懇意になる、その凡庸で俗な日常の一コマが、この漫才の空間では宇宙にさえも解き放たれる。チェリー大作戦は、そのような突飛に思われる接続を非常に丁寧に描いている。まず、宗安はリコちゃんを探すため店内を移動する。そして気がつけば店の外に出てしまう(鎌田が車に乗って宗安を轢きかけてから屋外に出たことに気がつく逆算の演出が美しい。そもそも移動の着地先はすべて鎌田のなんらかのアクションにより発覚する)。店に戻るため舞台を下手から上手へと歩くことによって「移動」が発生し、宗安は駅のホームに辿り着いてしまう。その後幾度も、空港やロケット発射場や宇宙から本来の目的先の同窓会会場に戻る過程で、宗安は走ったりドアを開けたり電車に乗ったりする。このB地点からA地点への「移動」を通過させ積み上げることによって、宇宙や太陽と話す会など、非現実的な場所へのアクセスを地道に演出する。店に戻る道中は漫才では省略可能な過程だが、そうしてしまうことによって損なわれるものがあることを強く意識している。宗安はこの漫才の空間をコントロールすることはできず、鎌田という神と彼が展開する空間(のルール)に抵抗し続けるしかない。宗安は行きたくもない場所へ放り出され苦労して店に戻ろうとするが、宗安の思いは、リコちゃんに会いたいという凡俗な目的から、「あるべき場所に帰りたい」という切実な願いへと変化していく。

 

・ある人物になりきることについて

漫才において「あなたは✕✕本人であると仮定して、✕✕を演じてください」と指示する場合、当然のごとく観客からすればその見た目は✕✕ではなく宗安や鎌田といったネタの外側の芸人本人そのものだ。よって芸人が何になりきっているかは、発話やアクションによって同定される(このことは以前、当ブログのなかやまきんに君論で示した「ハガキ職人が書いたメールはパーソナリティが読み上げた内容によってのみ現前する」ことと相似形を成す(https://yumesatomura.hatenablog.com/entry/2021/10/27/214246)。鎌田がリコちゃんになりきらないことにこの漫才の笑いの骨子があるわけだが、宗安はリコちゃんではない人物たちと知り合うことにより、帰属場所ともいえる空間を獲得することになる。知らない場所に辿り着いてしまう不安が、見知った場所(知人がいる空間)へ帰ることによって解消することはセットであり、カタルシスをもたらす。

 

・この漫才で行われていること

古典的、かつての王道である、しゃべくる漫才にはない「(ひとを取り巻く)空間の創出」と「芸人がなにものにでもなれる」という漫才(コント漫才というのでしょうか)の魔法が、そしてそれらが綿密に織り込まれたストーリーテリングがここにある。

 

 

時間おいて書くのだめだな。情熱が霧散しているのを感じる……。チェリー大作戦に申し訳ない。彼らのネタはほんとうにサイコーです。

https://youtu.be/pcS2rV-Bb0s